追憶の道 みちのく紀行 2

【野村邦男】

和歌の世界では歌聖と称せられる西行法師がみちのくに深い想いを抱き、京都・伊勢と奥州平泉の遥かな道のりを徒歩で二度も往復したことに驚きを覚える。
西行の修行者としての遍歴を辿り、旅の途次に詠んだ和歌に触れることにより、西行の精神のありどころに近づくことができればと思う。

西行法師は歌聖にして修験の旅人

西行は武士、法師そして歌人という日本の文芸史上できわめて稀有な存在である。
西行は平安末期武門の家系に生まれ育ち、父佐藤康清は検非違使の官位にあった。
元服後、佐藤義清(のりきよ)は北面の武士となり鳥羽上皇に仕えた。武道と歌道に優れ流鏑馬の達人でもあり将来を嘱望された青年であった。
しかし23歳の時に妻子と離別し、官職も捨てて出家をした。出家の要因は仏道への帰依や歌道の道を貫くためなど諸説がある。
平安後期は保元・平治の戦乱と震災・風水害・飢饉・疫病などに次々に襲われ末法の世と云われるような混乱と困窮に覆われた時代である。

高12 a

保元の合戦図屏風

若い西行は、混迷する世情、過酷な人々の生活、親しい人々の死を目の当たりにして自分自身を厳しく見直し、出家と修行の道を選んだように思える。

出家後しばらくは京都周辺の鞍馬・嵯峨・醍醐に草庵生活を営むが、その後は山深い吉野と峻険な大峰山での厳しい修行を重ねるようになる。
かつて吉野の山中に西行庵を訪ねたことがある。

吉野の西行庵
吉野の西行庵 

奥千本を更に山深く分け入り崖沿いの細道を辿って行くと三間四方の粗末な草庵があった。そこからは谷を隔てて遥かに大峰の山々を望み、周りは木々に覆われ寂寥としている。人里からは隔絶された草庵に、三年もの間唯独りで修行生活をするのは並外れた精神力がないとできないことだと感じた。
大峰山の修験山伏修行では断崖絶壁から谷底に落ちるような危険な場所で死と隣り合わせの苦行を行い、吉野から熊野至る1500m級の険しい峰々を踏破する大峰奥駆という荒行を行っている。

大峰山山伏修行
大峰山山伏修行

また弘法大師開山の高野山では真言密教の僧として教義を修得し、草庵を結んで修行をしている。30年ほどの間、高野山を拠点にして京都を行き来し、熊野、伊勢、讃岐などへの行脚をしている。

西行の生涯を通して根底にあるものは、こうした修験道の厳しい修行を通して身についた精神にあると思われる。
真言僧でありながら修験者である西行は天地自然と人の命は一体であることを感得し、山桜をはじめあらゆる草木や生きものに愛着を持っていた。

西行座像
西行座像

併せて、みちのくへの旅など長期長途の苦難の行脚に耐えることができたのは強靭な身体と不屈の精神によるものであると云うことができる。

一方、和歌の世界では西行は藤原俊成・藤原定家とも親交があり、勅撰の新古今和歌集に最も多くの歌が載せられた平安期を代表する歌人である。
西行の和歌は、厳しい仏道修行と草庵生活と修験の旅の中で生み出されたものであり、そこには都の王朝歌人たちとは違う独自の深い精神的なものが込められている。
「歌は即ち如来の真の姿なり、されば一首詠んでは一体の仏像を彫り上げる思いであり、真言を唱える思いである」と自ら記しているところに真髄がある。
天地自然の中に身を置き、身も心も山川草木に溶け込むような無我の境地から数多の秀歌が紡ぎだされたものと思われる。
特に山桜をこよなく愛したのは、美しく咲き儚く散り行く桜花と西行自身の心境を重ねていたのかも知れない。

西行法師のみちのくへの深い想いと二度の遥かな旅路

京都・伊勢から奥州平泉まで往復2000km以上もある道のりを1年もかけて二度の旅をしている。山を越え、谷や川を渡り未知の土地を独りで歩いて行くことは途方もなく大変なことである。
僧衣に柿渋を塗った雨具を背に負い菅笠を被り草鞋を履く旅姿で、宿場に泊まるか民家に一夜の宿を頼むか、野宿をするかというような旅である。

西行の旅姿
西行の旅姿

風雨の激しい日もあり、酷暑や寒冷の厳しい日もあり、獣に襲われる危険もあったことと思われる。身体がきわめて壮健であり、強靭な精神力がないとできない旅である。

一度目の奥州への旅は二十代後半であった。当時都から遠く離れた奥州・みちのくは異境であり辺境の地とされていた。
若い西行をみちのくの旅に駆り立てたものは何であったのであろうか。
みちのくの自然、人々の生活、異文化に触れたいという思い、異境の地で和歌の新しい境地を拓きたいという思い、修験者として未知の世界で更なる自己鍛錬をする思いなどがあったのではないかと推測される。

     心なき身にもあはれは知られけり
              鴫立つ沢の秋の夕暮

大磯の夕景
大磯の夕景

京を出立し逢坂の関を経て東海道を歩き峻険な箱根を越えて、ようやく坂東の地に足を踏み入れた。大磯の海辺にしばらく佇んでいると、夕暮が迫るなか鴫一羽が静かに飛び立つ姿が目に入った。出家の身である自分にはあわれを感じる情感が乏しいが、この蕭然とした夕景はこころに沁み入るものがあり、つくづくとものの哀れを感じさせられるという西行の心の内が伝わる歌である。
江戸の初期、この大磯の海辺近くに鴫立庵(しぎたつあん)が造られ、現在は和歌や俳句の愛好家が集い西行を追想する場となっている。

    道のべに清水流るる柳かげ
              しばしとて立ちどまれ

相模・武蔵・下総と歩き続けて来て、那須の広々とした農村地帯まで至る。

遊行柳
遊行柳

清水が流れる道のべに一本の柳が青々と涼しげに枝垂れているので、しばらく木陰で
ひと休みすることにしたという情景。長く険しい旅路の中でほっと寛ぐ気分が伝わる。
500年後に西行の歌枕を辿る松尾芭蕉がこの場所を訪れ、句を詠んでいる。
現在も那須野の芦野の田んぼ道にこの柳の命が代々引き継がれている。
能楽では「遊行柳」(ゆぎょうやなぎ)という夢幻能が演じられている。
  
     しらかはの関屋を月のもる影は
             人の心をとむるなりけり

白河の関は異境・辺境の地とされていたみちのくへ入る最初の関である。

白河の関跡
白河の関跡

春に京を出立してはるばる旅を続けてきたが、もう秋となってしまった。
古代からの関屋を守る人も居らず、荒れた建物からは月の光が漏れ射し込んでいるばかりでしみじみとした寂寞を感じる。しかし冴え冴えとした月影は美しく、旅人である自分のこころは引き留められてしまうという気持が詠まれている。この関屋で一夜をあかした西行は、いよいよみちのくの地に足を踏み入れて旅をつづける。

   とりわきて心に沁みて冴えぞわたる
                衣河見に来たる今日しも

雪の衣川
雪の衣川

半年ほどかけてようやく平泉に辿り着いた。奥州藤原氏の二代藤原基衡と後に三代目となる若き日の秀衡の厚い歓待を受け、仏道、武芸、歌道のことなど話し合ったものと思われる。
みちのくの王都平泉には京の都とは違う独自の文化と気風があり、中尊寺や毛越寺など壮大な寺院が建立され賑わいがあった。平泉の近くには衣川が流れ大河北上川に合流している。雪の降る寒い日であったが、衣川を見たくなり川岸まで出かけた。古戦場の跡に立って眺めていると前九年・後三年の役のことなどが思い出され、心に沁みて冴え冴えとした気持になったという情感が伝わる。

京に戻った西行は高野山での仏法修行、熊野や讃岐への行脚をつづけ、更に伊勢での草庵生活を送っていた。

東大寺大仏
東大寺大仏

そうした時期、源平の大争乱が勃発し、戦闘が各地で引き起こされていた。古都奈良も戦火に曝され、平氏によって東大寺の大仏も崩壊してしまった。尊崇する重源上人から、大仏再建のために奥州藤原氏に沙金を献上することを勧進するよう依頼される。
大仏は建立以来鍍金によって全体が黄金に輝いていた。その姿を再現するための沙金の勧進である。
既に六十九歳の高齢になっていた西行は奥州への旅は大変な苦難が伴うことが十分予想されたが、使命感から引き受けることにしたものと思われる。
当時の平均寿命が三十歳ほどであり、現在の年齢に推定すると八十から九十歳前後の老齢である。二十代後半の若い頃の一度目の旅と違い、二度目の旅は道中で行き倒れして死ぬことになるかも知れないとの覚悟の旅である。
それにしても西行の不屈で強靭な意志と行動力に驚嘆するばかりである。
 
    年たけてまた越ゆべしと思ひきや
             いのちなりけり小夜の中山

小夜の中山・歌川広重絵
小夜の中山・歌川広重絵

40年前の若い頃に越えた小夜(さよ)の中山を七十歳に近い高齢となって再び越えることになるとは夢にも思わなかった。生きながらこうして歩いているのも命があってのことである。これも運命であり仏の導きなのであろうという、西行の心のつぶやきが聞こえるような歌である。
この歌には修験者としての魂が込められていると思われる。小夜の中山は遠州掛川の峠道で、江戸期の浮世絵に描かれている。
    
      風になびく富士のけぶりの空に消えて
             行方も知らぬわが思ひかな

けむりたなびく富士
当時の富士山は噴火活動中で噴煙を上げていた

富士山の雄大な姿を眺めながら野道を歩いていると、自分のこれまでの来し方が脳裏に浮かび、これからの行方はどのようになるのであろうかという思いがよぎる。しかしながら大きな自然界と比べると、人の命も世の営みも噴煙のようにたなびき消えてしまう儚いものであるという、悟りのような心象風景が詠まれている。
この歌からは、西行がさまざまな体験と葛藤そして厳しい修行の末に、何ごとにも捉われない無執の境地に到達していたのではないかと推測される。

箱根を越えて相模の国の海辺に沿って歩いて行くと鎌倉に至った。
鶴岡八幡宮を拝し境内を歩いていると、たまたま源頼朝と家臣たちと出逢った。
この老僧は如何なる者であるかと尋ねられると「かつては佐藤兵衛尉義清、今は法師西行である」と名乗った。西行の名声は鎌倉まで届いていたようで、その立ち振る舞いに常人とは違うものがあると見て取った頼朝は自ら館に招き入れた。
一晩深夜に至るまで歌道や武道のことを語り合い、特に弓馬・流鏑馬(やぶさめ)について西行に教えを乞うたという逸話が史書「吾妻鑑」に記されている。

鶴岡八幡宮の流鏑馬
鶴岡八幡宮の流鏑馬

この面談の翌年から鶴岡八幡宮の神事として流鏑馬が行われるようになり今日まで続けられている。

西行は鎌倉を後にして武蔵・下野・岩代・宮城野と苦難の旅を続け、ようやく奥州平泉に辿り着く。西行は藤原秀衡と40年ぶりに再会し旧交を温めた。
秀衡は奥州藤原氏の三代目としてみちのく一帯を統治し、鎮守府将軍という官位にもあった。源平合戦によって平家が滅亡したこと、義経への追討令と逃避行、東大寺が戦火を被ったこと、これからの天下の趨勢など二人は話し合ったことと思われる。

柳之御所遺跡
柳之御所遺跡

重源上人からの沙金奉納の勧進を秀衡が承諾してくれたので、西行は東大寺大仏の再建という使命を果たすことができ安堵したことと思われる。
一方秀衡は義経を育てた軍略家でもあるので、いずれ頼朝が奥州に侵攻してくることをこの時すでに予見していたのかも知れない。
北上川の近くにある柳之御所は代々の藤原氏が政治を執り行う政庁であり客人を持て成す館でもあった。現在では建物は消失して広大な屋敷跡だけが残っている。そこに立って眺めていると、御所の奥の間で西行と秀衡の二人が語り合っている姿がまぼろしのように目に浮かぶ感覚を覚えた。

西行法師肖像画
西行法師肖像画

その後伊勢の草庵に戻っていた西行は、藤原秀衡が病没したこと、間もなくして源義経が藤原泰衡に襲われ自刃したこと、そして源頼朝の鎌倉軍の攻撃によって藤原四代の治世が滅亡したことを知る。
人の世は諸行無常であるという思いは更に強く深まったものと思われる。西行はほどなく河内・弘川寺に移り住み、この寺で七十三年の生涯を静かに閉じた。
    
      ねがはくは花のもとにて春死なむ
               そのきさらぎの望月のころ

弘川寺の桜
弘川寺の桜

終生愛した満開の桜のもとで、穏やかに死にたいという願望が込められた歌である。西行はかねてからの願いのように、桜花と望月と釈迦入滅とが一つに重なる二月十六日(旧暦)に入寂した。
西行は生涯にわたり厳しい修行生活と修験の旅を続け、煩悩のない涅槃の境地をめざした。しかし絶え間ない戦乱と流血の惨状に接し、親しい人たちの浮沈と逝去を目の当たりにして、憂いと哀しみは拭い去ることはできなかったのではないだろうか。この歌には西行の桜花への想いだけではなく、心穏やかに静かに永眠したいという諦観と解脱の想いが込められているように感じられる。

西行の事跡は八百年の時空を超えて、西行物語・西行物語絵巻に語り継がれ、能では西行桜・遊行柳・江口などが演じられている。新古今和歌集・千載和歌集・山家集などに載る和歌は多くの人々の心の琴線に触れ今も愛唱されている。

次回は松尾芭蕉のみちのくへの深い想いと奥の細道の旅にとつづく。

掲載日:2022 年 6月17日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ(高15期)

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